0.数理論理学とは何か

様々な論理学

論理とは,推論をするにあたって欠かせないもののことを言いますから,論理学は,人類による哲学的活動とほぼ同時に生じ,非常に長い歴史を持ちます.

妥当な推論は人類の歴史のあらゆる時代に用いられてきた。しかしながら、論理学は妥当な推論・論証・証明の「原理」を研究するものである。推論によって結論を導くという発想はおそらく、元来「土地の測量」を意味した幾何学との関連から生まれてきた。

ja.wikipedia.org/wiki/論理学の歴史

しかし真理への到達を目指す営みは哲学だけではありません.宗教に於いても論理は大事な位置を占めます.例えば,アリストテレスに代表されるギリシャ哲学とは独立に,ヴェーダの中でも問答法が発達し,そこからの論理についての議論は因明と呼ばれていたとのことです(4).次のような違いがwikipediaで紹介されています.

論理それ自体の真理性を追求するアリストテレスに始まる西洋の論理学と異なり、インドでは各々の立場からの真理到達(輪廻からの解脱など)の妥当性を問う側面が強かったため、認識論や存在論も含めた学問として発達した。

ja.wikipedia.org/wiki/因明
科学革命の旗手の一人Issac Newton

そのうち,17世紀にGalilei(ガリレイ)やNewton(ニュートン)による科学革命が起こってから,論理には新たな需要が生じます.正しい論理で紡がれた物理学の理論は,自然現象を正しく予測するのに役立つことが実証されたのです.そこから科学は発展の一途を辿り,それと両輪で,科学をするのに使う数学の言葉たちも,豊かに整備されて行きました.19世紀に差し掛かると,より厳密な数学的議論への需要の増加や,Hilbert programの旗揚げなど(1),論理への需要が爆発します.こうして30年ほどの間に爆発的に整備された,新たに生じた数学的な興味からなされた論理への考察を,数理論理学といいます.人類の長き論理の探究の歴史の中で最新の結果を提示してくれるのが数理論理学だと言って良いでしょう.またこれは,現代文明に欠かせないほどに実用的なものでもあります(2).

さて,このサイトは数学の精神の美しさと,これからの時代を創る力強さを紹介するサイトなのでした.このページで数理論理学の応用と他の分野への影響を見てから,感動と共に,「論理とは何か?」に対して,1つの実用的な答え

論理とは「文脈や解釈に依らずに成立するもの」のことである

を提示してくれるこの数理論理学の基礎概念たちを迎え入れたいと思います.


数理論理学の枠組みと応用

定義1.(形式化,formalization)

形式化とは,数学の議論において,何が議論の前提(=公理)となっているか,一体何が証明されているのかを分かりやすくする目的で,数学の議論を記号の操作などに抽象化・還元することを言う.

定義2.(形式論理・記号論理,formal logic / symbolic logic)

数学や哲学に於ける論証(argument)という営みを形式化した「モデル」 または「形式言語」を,形式論理・記号論理という.

形式化は,現代数学の基本的な戦略であると同時に,計算機が扱える対象への変換をも意味する. 従って,形式論理における推論を計算機を用いて自動化することも可能である.これを自動定理証明と呼ぶ.こちらも近年新たな結果が出ている分野である(3).

また,これら数理論理学の知見を方法論として応用して哲学的問題を解決しようと言う分野は哲学的論理学(philosophical logic)と呼ばれている.まるで数学で奏でた音楽である.これからの時代の哲学に注目である.

一方で,数理論理学ではない論理学も現代には存在し,それは数理論理学が論理を形式化して,そうして得たいわば「論理のモデル」である形式体系を数学的に分析する分野であることに対して,形式化せずに,議論や思考や自然言語と言った人間的な行為を複雑なままそのまま扱うので非形式論理学(informal logic)という.前述の通り,論理とは至る所にあるものである.ビジネスでも,物づくりでも,生活のどんな些細な場面でも,論理の知見は生かせる.この姿勢や教育学・心理学からの継承の文脈では,特に批判的思考(critical thinking)と呼ばれる.


注釈・補遺

1.Hilbert programとは,数学者David Hilbertにより提唱された「数学全体を形式化しよう」というプログラムである.Hilbertはその代表的な人物であるが,20世紀初等のRussellの逆理から始まる「数学の危機」が叫ばれてから,「数学自体を数学する」ことについて関心が高まった.
その問題意識を平たく言えばごくごく自然なものである.数学をやっていると,殆どが記号の操作である.計算は勿論,証明だって,数学用語の定義に戻って,その定義から論理に従って主張を言い換えていく(=論証する)のみで,数学の全てはある意味機械的な操作から成り立っているとも言えそうである.そうなると,全ての真理が探索され尽くすのも時間の問題だと思わないか?
このような問題意識は,Kurt GödelAlan Turingvon Neumannなどの天才を呼び起こし,新たな数学な分野が生まれた.これを数学基礎論(英: logic)という.結局Hilbert programは,数学基礎論という分野を産んだだけでなく,広く取って仕舞えば計算機(の設計の枠組み)も産んだのである.それでなく,計算機言語(プログラミング言語)の基礎とも言えるラムダ計算や型論理も数学基礎論にその不動の基礎を据えるものである.戻る

天才が数学者になるのではない,数学が天才を創るのだ.

Anonymous Mathematicians

2.数学は役に立たないものの槍玉としてよく挙げられる学問分野の一つである.しかし,よく考えてみれば,それを主張しているのは人間である.人間如きに,何が役に立って何が廃れるかが予測出来た歴史など一度もないのである.この世には,数学に深く関わったことのない,または個人的に嫌な思い出がある人間と,数学に気を取られるあまりどうしても応用に手が回らない数学者とが居るだけで,論争としては実のない,筋の悪い議論である.得体の知れないものも飼い慣らしつつある現代社会では,「得体の知れないものに対処する人類智」としての数学が必要となる機会は,今後増えていくだろう.そのためにこのサイトがあるのである!戻る

3.自然言語とは,日本語や英語,ラテン語やアイヌ語やヒエログリフなど,人類が進化の過程で獲得した言語機能から自然に発生した言語のことを指す.これは不特定多数の話者の生活に密着したもので,人類学や言語学の研究対象となる.一方で我々は,特定の目的に対して,新たに言語を設計することもできる.エスペラント語エプン語などは人工言語と呼ばれる.人工言語のうち,計算機言語を形式言語という.
基本的に,言語の表現力と計算力はトレードオフの関係にあると考えられるのではないか,と提案したい.
計算といえば数だが,数の表現力は限られている.複素数となると,表現力としては数の中では高いが,計算の定義は1+1=2の世界からは随分遠く,実際勉強したとしても現代では高校生になって初めて勉強するものとなっている.
計算機言語も,0,1からなる機械語で実際の計算が行われ,そこからassembly言語,システム言語,高級言語の順で表現力が高くなり,だんだん自然言語に近く.
自然言語による表現の探究の営みとしては,我々は文学や詩などの文化を持つ.

数学とは,計算や論理の構造が見えやすいように目的に合わせて設計された人工言語だ,と言えるだろう.そしてこれから,数学はより一層「言葉」らしくなり,表現力が重視されるようになっていくだろう.三高時代の岡潔は,「論理も計算もない数学をやってみたい」という言葉を残している.岡潔の残した数学の仕事は異彩を放っていると筆者には思われるが,その仕事はHenri Cartanらによる層の理論の形成に影響を与え,現代数学に確かにつながっている.そして現代の数学は,圧倒的な抽象性と,見えにくい論理を鮮やかに可視化させる表現力とを兼ね備えている壮大な発明である.抽象の極み,形式の祈り.この言葉に筆者が込めた想いが,シリーズを通じて読者の方々にもより深く実感されるようになることを祈るばかりである.戻る

4.古代ギリシャでの論理の演じた役割と,その特異性について,Max Weberの次の言葉がある.

かの『ポリテイア』におけるプラトンの感激は,要するに,当時初めて学問的認識一般に通用する重要な手段の意義を自覚したことに基づいている.その手段とは,”概念”である.それの効果は,すでにソクラテスにおいて発見されていた.もとより,それを知っていたのは彼ばかりではない.インドにも,アリストテレスのそれに似た論理学の萌芽が見出されるのである.だが,ここでいうその意義の自覚は,ソクラテスの場合が最初であった.彼において初めていわば論理の万力によって人を押さえつける手段が明らかにされたのであり,一度これに掴まれると,何人もこれから脱出するためには己の無知を承認するか,でなければそこに示された真理を唯一のものとして認めざるを得ないのである.永遠の真理は,真理に盲目な人々の行動のように,時とともに移ろいで行くべきものではない.ソクラテスの弟子たちにとって,これは実に偉大な体験であった.そして,そのことから,もし美だとか,善だとか,また勇気だとか,霊魂だとか,その他何であれ,それについてただ正しい概念を見つけ出しさえすれば,同時にそれの真の実在も把握しうると考えたれたのである.しかも,このことは同時に,特に公民としての生活において正しく振る舞うにはどうすべきかを知り,かつ教えるための方法を示すものとして考えたれた.というのは,あくまで公民としての立場でものを考えたギリシャ人にとっては,全てはこの問題に帰着したからである.彼らが学問に励んだ理由もここにあった.

Max Weber著,尾高邦雄訳 『職業としての学問』(岩波文庫)

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あの

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数学科出身の統計家志望.

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