「数学の人類学」の始まり

数学と人類学

以下の文章は,大学での講義「文化人類学Ⅱ」を履修し,期末レポートとして2020年2月4日に提出したレポートの抜粋である.私が初めて「数学という営みは一体どういうことなのかを,人類学的に観る」発想と出会い,それに興味を持った始まりの文章として価値があると考えたので,敢えて殆ど改定を加えずにこのページに保存しておく.


(現代)数学とはどういう営みか

 現代における人類学は、フィールドワークの対象も何かしらの「民族」や「文化」や「社会」とは限らず、大と小、現実と仮想現実、様々な相を呈する人々の在り方に対して行われ、極めて民主化された知的活動となったことを、今回の授業で学んだ。その結果、人類学は、いわば「人類の凡ゆる種の活動における不可量部分(1)を、人類の構成員として内部から、参加・観察を通じて客体化せしめ、文字又はその他のメディアにして複製・移動・共有可能にすることによって、不可量部分ではなくして理解していく行為」という意味において、数学とも類似性がある知的営みと見なせるということを、現代における数学という学問行為が持つ意味についてのこれまでの(未だ少ない)参加経験を基にした人類学的考察の試みを通じて、現段階での考えを述べる。

 まず、数学と科学は、文字文化の存在を前提とすると観察される。数学を「思考を客体化し、人々の間で共有する行為」と定義するなら、古くは古代エジプトリンドパピルスや、古代メソポタミアの粘土板からその言表活動の痕跡が発見されている。一方で、科学と呼ばれる知的営みの発生は、人類の技術が印刷革命を起こすに足りるまで待たねばならない。何故ならば、科学を「自然の客体化による分析と操作」とするならば、これは天才一人アイデア一つで実現するものではなく、人類の側に①「継続的な思考の文化」と②「世代と地理を越えた共有のシステム」が整わねばならない。人類学者Bruno Latourが著書『科学が作られているとき』(1987)で指摘するように、活版印刷によって初めて、天文学の最新の知見や観測の方法論が安価で提供され、観測マニュアルの共有・発信と、データの集積とから成るシステムが地理的広がりを持って人類共同体の内部に構築可能となった(2)。そこから自然への征服欲求が、科学という営みを加速度的に押し進めるまでは速かった。科学がその知見を技術として人間の生活環境に還元し、果てには人間の生活・娯楽・コミュニケーション・戦争を初め凡ゆる活動のあり方を不可逆的に変化させてゆくに連れ、その人間社会の中での文化的立場は確固たるものとなって行った(3)。

 ここで、今回考えたい主題である「現代数学」を、数学史から見て自然な定義とは少し様子が違うだろうが、「科学的思考を客体化し、操作可能にし、他人との間で共有可能にする行為」であると定義しよう。

 心理学者Lev Vygotskyがその著書『思考と言葉』(1934)の中で指摘する通り、書き言葉と話し言葉が内言と外言同様全く別個の言語機能である(4)なら、「数学のことば」と「自然言語による書き言葉」とは同様に全く別の表現行為であると言えよう。物理学のどの理論も、主に方程式という形で数学的に記述されるが、これらは勿論日本語や他の自然言語による表現を持つ(これを試みるのが教科書というものである)。しかしそれは「説明」であり「翻訳」に過ぎず、理論の本体は第一義的には数学の言葉によって構築されているのが現状である。

 では、こうして(狭義の)自然や人の経済活動等を説明しようとする科学の理論が、主に数学で記述されるのは何故か?その答えのひとつを、物理学者Eugene Wignerが”unreasonable effectiveness”という表現で端的に表している(5)。「その理由の全体像は何にしろ、取り敢えず自然科学での有効なモデルの構築に於いて非常に効果的だから」とでも言えよう。では、数学という言葉が科学において”unreasonably effective”なのは何故か?これは数学という学問が固有に持つ性質に由来すると私は考える。

 現代の数学は、人の科学的思考という行為を客体化し、操作し、共有する試みである。人の科学的思考はなんでもありではなく、一定の筋が通ってなければならず、これを「論理」と呼ぶ。この論理の糸を数学のことばの世界に映し取って顕在化させ、操作可能にする機構が数学で、その言葉と記法によって紡がれた世界には、既に多くの含蓄が内包され、後進はこれを学ぶ過程で正しい論理的思考への簡単なアクセス性を手に入れる。 具体例を示そう。微分積分学の分野において、合成関数の微分について連鎖律という性質が成り立つ。合成関数f\circ gxに於ける微分係数は、それぞれの関数の導関数f'g'の微分係数の積になる、という関係式であるが、この論理を、既に人に馴染み深い概念である「分数の約分関係」に仮託して、さも自然な関係であるかのように見せる効果を持つのが以下のLeibnizによる記法である(6)。

    \[ \frac{d(f\circ g)}{dx} = \frac{df}{dg}\cdot\frac{dg}{dx} \]

 この関係式は、「微分」という概念と「合成関数」という概念を定義した時点で成り立つ。言い換えれば、この2つの定義の中に含まれていたのである。しかし、これは人間にとっては自ずから明らかな関係では無いため、これを直感的に理解可能な記法を選択することが、人間が正しい論理の流れを自然に扱うためには肝要である。

 従って、最初からこの技法を用いて微分概念を学ぶことによって、微分の発見と理論の構築にかかった認知的努力の殆どを省略して、正しい論理的数学操作を圧倒的短時間で習得可能である。特に、無意識的に、非本質的な認知負荷が軽減される。これは自然言語による微分概念の記述では、ありえない利便性を科学者にもたらす。

 このように、目の前の自然に対する人間の科学的思考を初めとして、人間の社会的な活動や思考などの凡ゆる活動を相手取って、言語化・視覚化することによって客体化し、特にことばと概念を新たに作り、それを足場として次の性質を掴み、論文として発表し、数学理論の体系を得る。これを後進に「教育」という形で模倣を促して、文書で紡ぐネットワークを作る営みであるという意味で、数学と人類学は共通点を持つことを示したつもりである。

 なお、こうして数学が学問文化の中で持つ役割について考察をしたが、実際の数学研究のあり方や社会との関わりについては、参与経験が圧倒的に不足している。この考察をスタート地点として、志学数学、自分の人生行路を通じて絶えずその役割についての問題も同時に答えあげようと、考えることが出来ればと意気込んでいる。


自分の備忘録・読書録として書いている側面の濃いものも多いので,分からなくても気にしないでください.

1:人類学者Malinowskiは,その著書『西太平洋の遠洋航海者(Argonauts of the Western Pacific)』(1922)の中で,異文化を理解するには,日常生活の不可量部分(imponderabilia of everyday life)を把握するために,日常を共にする参与観察が欠かせない」と説いた.戻る

2:「ティコ・ブラーエは彼のためにオラネンブルグに建てられたよく整備された「天文台」の中で,同じ一様な製図の上に惑星の位置を書き記すだけでなく,前もって印刷した同じ星図の上に惑星の位置を書き記すだけでなく,前もって印刷した同じ星図をヨーロッパ中の天文学者に送ってそこへ書き記すように求めて,彼らからの観測結果をも集めた.」「彼(ティコ・ブラーエのこと)の精神が突然に変化を遂げたのでは無い.彼の目が突然に古い偏見から自由になるのでは無い.以前の誰よりも夏の空を注意深く観測している訳でも無い.彼は,夏の空+自分の観測+同僚の観測+コペルニクスの書物+プトレマイオスの『アルマゲスト』の多くの版とを一望のもとに見て考えた最初の人物である.長いネットワークの始点と終点に座り,不変で結合可能な可動物を私が呼ぶものを生み出した最初の人物である.」(ブルーノ・ラトゥール著,川崎勝・高田紀代志訳『科学が作られているとき――人類学的考察』産業図書 1999)戻る

3:私がこの一文を書いている時に脳裏に持っていたイメージは,次の文章の下線部である.(Richard Feynman – Take The World from Another Point of View)

It has to do with curiosity.  It has to do with people wondering what makes something do something.  And then to discover, if you try to get answers, that they are related to each other – that things that make the wind make the waves, that the motion of water is like the motion of air is like the motion of sand.  The fact that things have common features.  It turns out more and more universal.  What we are looking for is how everything works.  What makes everything work.

What happens first in history is that we discover the things that are on the face of it obvious.  And then gradually we ask small questions, and then we dig in a little deeper into things that we need to do a little more complicated experiment to find out about.  But it is curiosity as to where we are, what we are.  It is very much more exciting to discover that we are on a ball, half of us sticking upside down and spinning around in space.  It is a mysterious force which holds us on.  It’s going around a great big glob of gas that is fed by a fire that is completely different from any fire that we can make (but now we can make that fire – nuclear fire.)

That is a much more exciting story to many people than the tales that other people used to make up about the universe – that we were living on the back of a turtle or something like that.  They were wonderful stories, but the truth is so much more remarkable.  So what’s the pleasure in physics for me is that it is revealed that the truth is so remarkable, so amazing, and I have this disease – like many other people who have studied far enough to begin to understand a little of how things work.  They are fascinated by it, and this fascination drives them on to such an extent that they have been able to convince governments and so on to keep supporting them in this investigation.

この一節を動画で(8:57~)初めて見たときの感激を今でも覚えている.戻る

4:「書きことばは,内言がその構造と作用の仕方において外言と区別されるように,それと劣らない程度に話し言葉とは区別される,全く特別の言語機能である.書きことばは,研究が明らかにしているように,高次の水準の抽象の最小限の発達を必要とする.書きことばは,音楽的・抑揚的・表情的,一般に自己のあらゆる音声的側面を欠いたことばである.それは,思想の中,表象の中のことばであり,話しことばの最も本質的な特徴―物質的音―を欠いたことばである.」(レフ・ヴィゴツキー著,柴田義松訳『思考と言語』新読書社,2001)

「話しことばにおいては,言語活動の動機を作り出す必要はない.この意味において話しことばは,力動的状況によって自己の流れを調節されている.話しことばは,全くこの状況から流れ出て,状況に動機付けられた,状況に条件づけられた過程として進行する.書きことばにおいては,我々は自分で状況を作りださねばならない.より正確に言えば,その状況を頭の中に描かなければならない.ある意味では,書きことばの利用は,話し言葉の場合とは原則的に異なる,状況に対する態度を前提とする.即ち,それは,状況に対するより自主的な,より随意的な,より自由な態度を要求する.」(レフ・ヴィゴツキー著,柴田義松訳『思考と言語』新読書社,2001)戻る

5:Eugene Wignerは“The Unreasonable Effectiveness of Mathematics in the Natural Sciences”と題した文章をCommunications in Pure and Applied Mathematics, Vol. 13, No. 1 (Feb. 1960)に発表している.戻る

6:数学の言葉についての補足をする.一般に微分積分学は,基本的には実数から実数への関数の,微分と積分に関する性質を調べる学問であり,fgもそのような「実数から実数への関数」だと思って良い.このことを数学ではf:\R\to\Rと表示する.このような関数の特徴は,「入れる値をちょこっとだけ変化させる」という操作が想定できることである,これを術語では実数の連続性と呼ぶ.その時の振る舞いを調べる統一的な方法としては,「極限」を考えて「微分」という操作を定義しておくと,関数の局所的な振る舞いは恐ろしいほど統一的に議論できるようになる.こうして整えられた概念体系を微分積分学と呼び,現在「極限」や「微分」などの概念は\varepsilon\delta論法などの形でひとまず飼い慣らされているから,大学初年度で教えられる.
その中でも,合成関数の振る舞いは大事な対象で,chain ruleという統一的な結果が結論される.まず,合成関数とは,2つの関数f,gがあったときに,ここから新しく,関数「fを適用してから順番にgを適用する関数」を簡単に想定できる.これをg\circ fと書いて,その定義を g\circ f(x):=g(f(x)) \;\;(\mathrm{for\; all}\;x) などと表現する.
さて,極限,微分,合成関数の微分についての数学的な結果は,以下の動画をお勧めする.英語が所々分からなくても,アニメーションだけでも肌感が伝わってくるし,僕はただ色と数式と音楽だけでも楽しめてしまう.

アメリカの数学 outreacher である Grant Sanderson による 3blue1brown というYouTubeチャンネルの人気シリーズ「微分積分学 (Calculus) 」の4本目の動画は,本文でも出てきた Chain Rule について解説されている.

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あの

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数学科出身の統計家志望.

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あの

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りん

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