流れ
1856年〜1860年 アロー戦争
→1858年 天津条約
1856年 ハリス,総領事に着任
→堀田正睦,勅許を孝明天皇に求めるが失敗
1858年 井伊直弼,日米修好通商条約に調印
→勅許なしでの調印を断行
1858年 安政の五カ国条約
→オランダ・ロシア・イギリス・フランスと通商条約
1860年 条約批准に咸臨丸が随行
1860年 桜田門外の変
→井伊直弼が暗殺され,幕府の権威が失墜
1860年 五品江戸廻送令
→雑穀・水油・蝋・呉服・生糸は江戸問屋を経由
→江戸の流通機構を保護
1860年 万延貨幣改鋳
→万延小判など,金の含有量を減らした貨幣を鋳造
→金銀比率を欧米と揃えて金の流出を防ぐ
1860年 ヒュースケン殺害事件
→ハリスの通訳であるヒュースケンが暗殺される
1861年 対馬占拠事件
→ロシアの軍艦が対馬を一部占領
1861年 東禅寺事件
→イギリス仮公使館が襲撃を受ける
1862年 生麦事件
→島津久光らの行列がイギリス人を殺傷
1862年 イギリス公使館焼き討ち事件
① 自由貿易
箱館・神奈川・長崎・新潟・兵庫を開港
※ 下田は閉鎖,神奈川は横浜に。兵庫は神戸になり1867年開港,新潟は1868年開港
江戸・大坂を開市
居留地でのみ通商
② 不平等条項
治外法権の一つ,領事裁判権
協定関税制で関税自主権の喪失
→日米和親条約の片務的最恵国待遇を合わせて3つ
主要相手国はイギリス,主要港は横浜
輸出品……生糸,茶,蚕卵紙など
輸入品……毛織物,綿織物,武器など
13代徳川家定の後継ぎを決める
南紀派……徳川慶福を推挙,井伊直弼ら
一橋派……徳川慶喜を推挙,松平慶永・島津斉彬・父の徳川斉昭ら
井伊直弼が大老に就任→南紀派の勝利
→徳川慶福は徳川家茂に改名し,14代将軍に
蟄居……徳川斉昭
隠居謹慎……松平慶永,徳川慶喜
刑死……吉田松陰,橋本左内
→桜田門外の変を招く
講義
通商条約と勅許失敗
アヘン戦争が開国の契機であったならば,開港の契機は1856年に勃発したアロー戦争と言えよう。アロー戦争とは,清がイギリス船を臨検したことを端緒とする,清と英仏との戦争である。日米和親条約の結果,1856年,下田にアメリカ駐日総領事として着任したT.ハリスは,アロー戦争の結果,1858年に清が天津条約を結んだことを理由に,幕府に英仏の危険性を訴える。そして,アメリカとの通商条約で先例を作ることで,英仏の武力から逃れる道があると説く。この一大事にあたったのが,老中首座の堀田正睦である。攘夷派との対立を懸念した堀田正睦は条約調印の勅許を求めて上洛し,孝明天皇に事の重大性を伝えた。しかし,孝明天皇は公武合体,そして攘夷の立場から難色を示す。そして,勅許を得ることは失敗に終わる。ここに,禁中並公家諸法度や紫衣事件から連綿と続いた幕府の朝廷統制が終焉を迎える。
太平天国の乱とインド大反乱
アロー戦争開戦から遡ること5年,中国では太平天国の乱という反乱が起こっていた。農民を率いる洪秀全は1851年に太平天国を創建し,1853年には南京を占領する。この乱は1864年まで続くこととなる。さらに,1857年から1859年まで,インドでは反英独立のインド大反乱が起こる。この二つの反乱は,日本に加わる欧米の圧力を緩和した。
日米修好通商条約
1858年,彦根藩主の井伊直弼が大老に就任し,条約問題が前進する。井伊直弼は,同年,勅許を得ずに通商条約に調印した。いわゆる,違勅調印である。こうして結ばれた条約は,その名を日米修好通商条約という。日米修好通商条約の意義は,自由貿易と不平等条項にある。まず,自由貿易であるが,箱館・神奈川・長崎・新潟・兵庫の5港が開港した。神奈川開港にあたって,下田は閉鎖された。江戸と大坂は商取引が許され,開市となった。ここでは,幕政が関与しない自由貿易が行われた。しかし,外国人の通商・居住は,開港場と開市場の居留地に限定された。一般外国人の国内旅行は禁ぜられた。続いて,不平等条項である。治外法権の一つである,領事裁判権が認められた。領事裁判権とは,領事が在留外国人の裁判を執り行える権利である。そして,協定関税となったことで,アメリカにかかる税に規定がなく,日本は関税を拘束されるという状態になった。これを,関税自主権の喪失という。日本の関税に関しては,貿易章程で細かく規定された。領事裁判権・関税自主権の喪失に,日米和親条約の片務的最恵国待遇を加えた三つの不平等条項に関して,改正を求めて日本は奔走することとなる。また,公使の江戸駐在,領事の開港地駐在なども規定された。なお,清に比べれば関税は高く,アヘン輸入を禁ずる規定もあったため,不平等条約であれど,天津条約に比べれば有利なものであった。
安政の五カ国条約
日米修好通商条約に続いて,日本はオランダ・ロシア・イギリス・フランスと修好通商条約を結ぶことになる。1858年に結ばれたこれら5つの条約を総称して,安政の五カ国条約という。内容は総じて似通っており,いずれも不平等条約であった。安政の五カ国条約によって,日本は本格的に開港することとなる。幕府は,外交職として外国奉行を新設し,永井尚志,岩瀬忠震らが任命された。岩瀬忠震は堀田正睦とともに勅許を求めて上洛したことや,幕臣の井上清直とともに日米修好通商条約に調印したことで有名である。なお,井上清直の兄にあたる川路聖謨も日露和親条約締結時などに活躍した幕臣であり,外国奉行の職を与っている。
開港場の整備
この外国奉行らによって,港が整備されていくことになる。神奈川港は,日本人の多い東海道沿いであったため,1859年に横浜港にとって代わられる。兵庫は開市開港が延期され,1867年に開港した。商取引の中心が外国人居留地の神戸であったため,神戸港と呼ばれることになる。新潟港の開港も,1868年を待つことになる。
条約批准と咸臨丸
条約調印に関連して重要なのはもう一点,咸臨丸による太平洋横断である。外国奉行の新見正興を正使とする万延遣米使節は,1860年に条約批准書の交換のため渡米した。これに随行したのが,オランダから輸入した幕府の木造軍艦である咸臨丸だ。艦長を勝海舟,司令官を木村喜毅として,初めて太平洋横断に成功することとなる。通訳の中浜万次郎や,蘭学者の福沢諭吉らもともに渡米した。この遣米使節はJ.ブキャナン第15代大統領とも謁見した。アメリカ合衆国はその後,第16代大統領にA.リンカンを迎え,南北戦争に突入していく。
開港期の貿易
1861年に南北戦争が開戦してから,アメリカは日本との貿易を行うことがままならなくなった。よって,日本の主な貿易国はイギリスとなる。そして,この幕末貿易のほとんどは横浜港で行われた。割合にして,5分の4が横浜での貿易となる。これらの貿易は,居留地の外国商と,日本の貿易商との間で銀貨を介して行われた。日本の輸出品は,8割を占める生糸を筆頭に,茶や蚕卵紙などの原材料が中心となった。一方,輸入品は毛織物,綿織物などの加工品が大半であった。武器や艦船などの軍需品の輸入も行われた。当時の日本は輸出超過であり,やがては輸入超過となったものの,貿易額の増加は国内経済を圧迫するほどの物価高騰を招いた。そして国内は物品不足に襲われた。製糸業は器械を用いた座繰製糸で持ちこたえたが,絹織物業は生糸不足に損害を被り,綿織物業もイギリス産の安価な製品に打撃を受けた。
五品江戸廻送令
そこで,幕府は流通を統制し,また江戸の問屋を保護するため,五品江戸廻送令を発した。その名が表す通り,雑穀・水油・蝋・呉服・生糸の五品を江戸問屋経由で開港場へと送ることを命ずるものである。しかし,これは生糸などを開港場へ直送していた在郷商人や,居留地の欧米商人らの反発にあい,功を奏することはなかった。
万延貨幣改鋳
自由貿易の開始時は,外国と金銀の交換比率が異なっていたため,金が海外に流失してしまう恐れがあった。具体的には,日本で金1対銀5の比率であったところが,外国では金1銀15であったのだ。つまり,日本に5の洋銀を持ち込んで1の金貨に交換すれば,自国で銀に交換し直すことで15,すなわち当初の三倍の銀を手に入れられたのである。実際に,10万両以上の金貨が流失した。この問題に直面した幕府は,金の含有量を減らした万延小判を鋳造することで,国内の金銀比率を海外に合わせた。これを,万延貨幣改鋳という。しかし,貨幣価値の引き下げは,さらなる物価の騰貴を招いた。結果,五品江戸廻送令や万延貨幣改鋳などの小手先の政策では経済問題を解消しきることは叶わず,市井には不平が溜まっていった。特に下級武士は尊王攘夷運動に参加し,これを加速させていった。
攘夷運動の加熱
攘夷運動の一部として現れたのが,1856年のハリス襲撃未遂事件に始まる外国人殺傷事件の数々である。1860年には,駐日アメリカ公使館の通訳官であったオランダ人のH.ヒュースケンが暗殺されるヒュースケン殺害事件が起こる。そして,1861年に,水戸藩の浪士14人がイギリスの仮公使館であった東禅寺を襲撃する東禅寺事件が起こる。1862年の生麦事件は最も知られた殺傷事件だろう。横浜近郊の生麦でイギリス人4人が,江戸から薩摩へと帰る只中である島津久光らの行列に出会う。イギリス人は行列へのしきたりを知らなかったため,非礼として従士が3人を殺傷してしまう。この生麦事件は,薩英戦争へとつながる。1862年は,イギリス公使館焼き討ち事件も起こった。東禅寺事件を受けて品川御殿山に移設中だったイギリス公使館が,高杉晋作らに襲撃されて全焼した事件である。
対馬占拠事件
この間に起きた事件として,対馬占拠事件がある。これは,1861年にロシア軍艦のポサドニック号が,対馬の一部を占拠したという事件である。ロシアの目的は,長崎への航行通路を確保し,イギリスに対抗することにあった。結果,外国奉行の小栗忠順の尽力により,イギリス公使オールコックが干渉し,ポサドニック号は退去した。
ここまでの一連の流れは,幕府を大いに悩ませた。結果,1862年に遣欧使節を派遣し,イギリスとのロンドン覚書などによって,江戸・兵庫の開市と兵庫・新潟の開港を延期することが決定した。
将軍継嗣問題
さて,開国・開港期の幕府を席巻した問題として,外交問題とともに浮かび上がるのが将軍継嗣問題である。13代将軍の徳川家定は病弱であり,世継ぎがいなかった。そこで1857年ごろから,徳川慶福を推す南紀派と徳川慶喜を推す一橋派による争いが始まる。徳川慶喜は水戸藩主徳川斉昭の子であり英明であった。阿部正弘の元で活躍した松平慶永や島津斉彬,そして徳川斉昭ら改革派は一橋派を形成し,幕府と雄藩の連合を図る。しかし,水戸藩に反発して幕府独裁を貫かんとする井伊直弼らは,徳川家斉の孫であり,将軍との血統が近い和歌山藩主の徳川慶福を後継候補とし,南紀派を形成した。将軍継嗣問題は1858年に井伊直弼が大老に就任すると,南紀派の勝利で決着が着く。徳川慶福は徳川家茂として14代将軍に就いた。
安政の大獄
井伊直弼は大老に就任すると,反対派の弾圧を行った。一橋派の松平慶永は隠居謹慎,徳川斉昭は蟄居,徳川慶喜は隠居謹慎となった。そして吉田松陰,橋本左内,頼三樹三郎などが刑死した。梅田雲浜は幽閉中に病死している。処罰者は100名を超えたという。これを安政の大獄という。それぞれの人物について補足する。頼三樹三郎は頼山陽の子である儒学者,梅田雲浜は浪人で,いずれも尊王攘夷運動で活躍した。吉田松陰は叔父の玉木文之進が開いた私塾である松下村塾を受け継ぎ,久坂玄瑞や高杉晋作など,尊王攘夷の志士たちを育てたことで有名である。また,幕政を批判し,老中間部詮勝の暗殺も計画した。橋本左内は,福井藩士であり,松平慶永とともに一橋派として活躍した。
桜田門外の変
安政の大獄の反動として起きたのが,桜田門外の変である。1860年,水戸藩浪士を中心とする尊攘派の志士たち18名が,江戸城の桜田門で井伊直弼を暗殺する。これにより,幕府の権威はより一層損なわれることとなる。桜田門外の変は3月に起きた事件であるが,季節外れの雪が降っており,白雪の中に鮮血が飛び散る様子は,幕末の変曲点として後世に語り継がれている。
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