流れ
1840~1842年 アヘン戦争
→天保の薪水給与令で異国船打払令を緩和
1844年 オランダ国王の開国勧告
→鎖国を理由に拒否
1846年 米ビッドルが来航,通商要求
→鎖国を理由に拒否
1853年 ペリー来航
1854年 日米和親条約
→下田・箱館開港,領事駐在権,最恵国待遇
1855年 日露和親条約
→プゥチャーチンと調印
→択捉・得撫間に国境,樺太は雑居地
老中阿部正弘の政治改革
海防参与……前水戸藩主徳川斉昭
協力……越前藩主松平慶永,薩摩藩主島津斉彬,宇和島藩主伊達宗城
・江戸湾に台場を築造
・長崎に海軍伝習所を作る
講義
アヘン戦争と開国
開国期とは,世界の動乱に日本が組み込まれる瞬間である。世界は,18世紀の産業革命以降,市場と原料供給地を欲してアジアを席巻していた。日本に関連することとして,まず契機となったのは,1840年に開戦したアヘン戦争であろう。幕府はここに海外情報を欲し,1842年からオランダ商館長に別段風説書を提出させる。別段風説書はバタビアのオランダ政庁による資料であり,オランダ風説書よりも詳らかに海外事情が書かれている。さらに,同年,イギリスの危険性を察知し,天保の薪水給与令に異国船打払令を緩和させる。薪水給与令とは,文字通り異国船に燃料と水,および食料を供給するものである。
オランダ国王の開国勧告
1844年,オランダ国王ウィレム2世による親書が12代将軍徳川家慶に届く。これは,開国を勧告するものであった。いわゆる,オランダ国王の開国勧告である。幕府は鎖国を名目に拒絶する。当時幕府はアイヌと関わる松前藩,朝鮮と関わる対馬藩,琉球と関わる薩摩藩,及び長崎出島の四つの口で外交していた。このうち国交を結ぶ国を通信国,貿易を行う国を通商国としていたが,オランダは通商国に過ぎなかったのである。
アメリカの開国要求
しかし,これより開国要求が続く。1846年,アメリカ東インド艦隊司令長官のJ.ビッドルが浦賀にコロンバス号で来航し,通商を要求する。しかし,幕府はこれも拒絶する。この当時アメリカは,西海岸までのフロンティア開拓を済ませており,太平洋横断航路の開設を目論んでいた。これは,アヘン戦争後の1842年に南京条約を締結し開国した清との貿易を見据えたものである。さらには,太平洋で活動する自国捕鯨船の寄港地も求めていた。1850年に大統領に着任したM.フィルモアは東インド艦隊司令長官M.ペリーを日本に派遣する。1853年,ペリーは浦賀沖にサスケハナ号を旗艦とする軍艦4隻で来航する。13代将軍に徳川家定が就任したまさにその年である。サスケハナ号は19世紀初めに実用化されたばかりの蒸気軍艦であり,日本人を驚かせた。黒船とは,安土桃山時代より欧米船を指していた名称だが,以後はペリーの象徴となる。幕府は黒船に気圧され国書を受け取るが,回答は翌年まで保留する。
日米和親条約
1854年,ペリーはポーハタン号を旗艦とする軍艦7隻で来航し,日米和親条約が結ばれる。神奈川で結ばれたため,神奈川条約とも呼ばれる。その内容は,薪水の給与,漂流民の救済と引き渡し,下田・箱館の開港,領事駐在権の容認,最恵国待遇の供与などであった。下田は1854年に開港されるが,箱館の開港は1855年を待つこととなる。最恵国待遇とは,他国に与えている諸待遇のうち,最も恵まれた待遇をその国にも適用するというものである。これがアメリカのみに規定されたことが,不平等条約と呼ばれるゆえんである。このように,一方のみに最恵国待遇を与える規定を片務的最恵国待遇という。この後,日本はイギリス,ロシア,オランダとも同種の条約を結ぶ。
列強との和親条約
1854年の日英和親条約は,長崎と箱館を開港するもので,こちらも片務的最恵国待遇の規定があった。1855年,日露和親条約が締結される。下田で結ばれたため,下田条約とも呼ばれる。これは,1853年に長崎に来航して通商を要求した,ロシア極東艦隊司令長官のE.プゥチャーチンと調印したものである。この条約では,下田・箱館・長崎を開港した。長崎は,最恵国待遇によってアメリカにも開かれることになる。また,この条約で重要なのは,北方の国境画定である。千島列島は,択捉島・得撫島間を国境とし,樺太は国境なしの雑居地とされた。この国境は現在の北方領土問題と深く結び付く。1855年,日蘭和親条約が結ばれる。これにより,オランダ人は長崎での行動の自由が保障された。
日本の開国
これにて日本は開国する。しかし,開港場で貿易を行っていただけであり,自由貿易は行なっていなかったことには注意されたい。すなわち,条約内容としては天保の薪水給与令と大差ないのである。注目すべきは,欧米列強諸国と次々に条約を結び,その来航を認めていったことである。この政策転換をもって開国という。
琉球王国の開国
琉球王国も時を同じくして開国を迫られることとなる。1844年,フランスは琉球に開国を要求する。1845年にはイギリスもこれに続く。こちらも,太平洋地域での拠点とすることを目標とした開国要求である。幕府は薩摩藩に,琉球王府が一部の欧米列強と交易をする政策をとることを許可して良いと通達する。幕府には,琉球を欧米との緩衝地域にする策略もあった。1854年,ペリーは琉球王府と琉米条約を締結する。こちらは,修好条約である。琉球王国は,フランス,オランダとも同種の条約を締結する。
公議の尊重
さて,この間の幕政を担ったのが老中の阿部正弘である。彼は諸大名や幕臣らに諮問する挙国一致策をとり,和親条約を締結した。これは,幕府の威信を落とすと批判された。海防参与には前水戸藩主の徳川斉昭が任ぜられた。その後,阿部正弘は公武協調を図っていく。この間活躍した諸大名とは,松平慶永,島津斉彬,伊達宗城らである。特に,宇和島藩主の伊達宗城は外交に関して強く意見を上申した。
安政の改革
幕府の海防政策としては,台場の設置が挙げられる。台場とは,砲台のことである。江戸湾の防備のために1810年から築造されていたが,ペリー来航を機に数を増やすことになる。また,1853年には大船建造の禁が解禁され,諸藩に洋式軍艦の建造が奨励された。これらに活用されたのが,佐賀・薩摩・水戸・韮山に有名な反射炉である。また,海軍伝習所や洋学所も設立された。洋学所は蕃書調所と改称され,東京大学のルーツとなる。阿部正弘が和親条約締結後に行ったこれらの改革を安政の改革という。
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