Bertrand Russellと鈴木大拙

数学の認識論

大学2年の5月,数学科進学を目前に控えて書いた文章です.

以下本文

*以下,引用に際しては敬称略します.Bertrand Russellさん,鈴木大拙さん,屈原さん,Albert Einsteinさん,Eugene Wignerさん,3blue1brownのGrant Sandersonさん,Saint-John Perseさんです.みなさまの残した言葉を食べてすくすくと育って居ます,いつもありがとうございます.

Mathematics, rightly viewed, possesses not only truth, but supreme beauty cold and austere, like that of sculpture, without appeal to any part of our weaker nature, without the gorgeous trappings of painting or music, yet sublimely pure, and capable of a stern perfection such as only the greatest art can show. The true spirit of delight, the exaltation, the sense of being more than Man, which is the touchstone of the highest excellence, is to be found in mathematics as surely as in poetry.
– BERTRAND RUSSELL, The Study of Mathematics (1907).

0.はじめに

数学が手に付かなくなった時,今の自分には何かが必要なのだと大体分かるようになって来た.それを解決しない限り前に進めない.

そこで,日々の出来事は日記にまとめるようになった.言葉にするだけで随分自分を客観視できるようになるから,僕にとって大事な習慣となった.しかし最近は,それがある程度貯まると,外に出さないと落ち着かなくなる.いよいよ大人の年齢になって,本当に闘って行きたいのなら,逃げるときのことは考えずに,少しずつ肩の荷を下ろしながら,身軽になって,本気で闘うことだけを考えたい.

そこで,日記そのままだと,これはほぼ毎日を生きるために付けているものだから,とても他人に見せられたものではない.しかし,「日記を振り返るという体裁で,多少の編集を加えて文章にすると,自分としても見えなかった大局的な心の動きが見えるし,何より主題も客観性が高まったものになって,少しは読み応えのあるものになるだろう」と気づき,『日記作品』と名付けて,ここにその一作目を書いてみた.ちゃんと「題名をつけた」日記を,整理して検索しやすい媒体で書き残して置くのはどなたにもおすすめできる.

すると,その後書きとして付け足しただけのつもりだった内容に,自分でも思いも寄らなかった内容が咲いてくれた.「鈴木大拙と僕の数学の関係」である.これは,図らずして,このnoteのepigraphに採用した「詩と数学の関係」について言及したBertrand Russellの言葉の,1人の人間の中で体験された具体例だとも思える.だからこの発見の部分を抽出して,「鈴木大拙に僕が出会った経緯」と「そこから数学に続いた道筋」を第1節第2節で描き出し,最後に第3節でもっと大局的なところから見直してみたい.

1.鈴木大拙の学問

前述したnoteの本文中で引用されている屈原による『漁父の辞』は,母校で非常に好きだった清水先生の漢文の授業で扱った思い入れのある文章で,そこから僕は言葉の世界へと誘われたのだが,そこから僕の読書は,何かに導かれるかのように不思議な方向に行き,最後にはなぜか数学に辿り着いた.
そうして今,漁父の辞を読み返して,その内容から連想して,僕の読書の重要な転機の1つとして鈴木大拙の次の言葉を思い出した.高校の頃はまだ知らなくて,浪人の際に出会って衝撃を受けた言葉達だ.正直,Wikipediaページは何度も読んだけど,結局鈴木大拙は求道者としては何者で,学問者としてはどのような学問を目指していた人物なのか,肌感がまだあまり分かっていない.この二足の草鞋が何を意味するのかも.僕が数学や学問でやりたいこと,辿り着きたい極地が周りの人とは少し違うなと感じるのも,僕の源がこういうところにあるからなのかも知れない.

華厳の法界を動かしているものは大悲心に他ならぬので,仏教者はこれに人格的相好を与えて具体化するのが常であります.阿弥陀如来というのはこの如き人格化の一つです.
(『仏教の大意』鈴木大拙,角川ソフィア文庫,2017)

これを読み返して,僕は自分の文体は無意識的にこういうものを真似ている所があると自分では気づいているが,僕の友人はどうだろうか.

分別は”我”を真実と認めて居ます。此の”我”は種々の形態で現れます。個己我・国家我・民族我などというものもあります。いずれも分別我の種々相でありますが、これが分別的に固守せられると、一即多・多即一・即摂即入などと言われる事事の同時互即の法界が全く忘れられます。これが忘れられると、この世界は如実に修羅の巷となるより他ないのです。阿弥陀の浄土は跡形もなく消え去るでしょう。弥陀の請願は華厳の世界を此土に現前せんとするのです。霊性的直覚の法界は弥陀の浄土の義です。そうして弥陀は我らの一人一人に他ならぬのです。事事無礙法界を打して一丸とすれば弥陀となる、弥陀の大悲が分裂して個々事事の真珠となれば、われら衆生もまた一々に浄土の荘厳であるのです。
(同上)

この引用を読んでも一体なんなのか全く了解されないことだろう.本全体を通読したはずの僕もあまり分かった気がしない.だが,読めば読むほど,不思議と個々の単語は全くの未知でも,全体が奏でる総体は,不思議と響きが心中に残っているのではないか?
なぜ僕はこの文章に,こんなにも自分の心に肉薄してくるような,具体的な意味を読み取れてしまうのか.僕はその点が不思議で不思議で,最初に出会った時から頭に引っかかっていた.一体こんな文章をどうやって生み出したのか,となると想像も付かない.

まず,漢字というメディアが繋いでくれる心内イメージのネットワークには驚くべき広がりがある.固有名詞を除けば,発音はできなくても漢字を見れば意味のネットワークがすぐに脳内で無意識に広がる.逆に音が大事なときは平仮名で書くと良い.「相」「即」「大悲」「霊性(僕はこの語に出会う前にすでにinspirationとかespritとかのラテン的概念の方が馴染み深くて,「霊」はラテン語のspirare(息)に近いと理解している.なお,これは言葉をメディアとして使っている一使用者の感覚で,学問としての言語観はまだ手薄です.有識の方は是非教えてください.)」などの言葉の使い方は特に好きだ.「事事無礙」は「礙」を漢字辞典で調べてみれば,4字全体の手触りも伝わってくる.「理事無礙」との対比の中で見ればさらに想像が膨らむ.これは現代日本の漢字が,特に「漢文」として純粋な形で結晶された中国の莫大な文化資産と,意味空間を共有しているからである.だから漢文が好きだ.きっと多くの人が繋いで来たくれたおかげで,僕たちはちょっと追加で訓練するだけで,莫大な精神活動の遺産に,驚くべきアクセス性を手に入れることになる,これはすごいことだ.

この漢字のメディアとしての特性を特に活かしているのが仏教の分野であると僕には思われる.そしてその土台の上に,精巧に編み上げられた鈴木大拙の文章は確実に僕の人生を狂わせた.この上なく人の世に普遍的な内容でありながら,不思議とすっと入ってくるような具体性と,特殊なメディア(=語彙・言葉)の採用による強烈な解像度の高さと属人性が,とてもこの世のものとは思えなくて,魔法だと思った.

俺はこれに莫大な祈りを見た.

2.数学の法界

【法界】〔仏教で〕意識の対象となる全ての物事.
(新明解国語辞典 第七版)

分からないながらも,数学をやっている最中の僕がふと,「数学って事事無礙の法界を転写した記法体系じゃないか?」とか思ってしまうのも,単なる無明な若造の早まった思い上がりではないと思う.そういう話をしようと思う.

数学は一見すると非常に脆い試みに見えると思う.数式は御大層な見た目の癖に,定義を読んだら「その程度の話か」となった経験がある人は少なくないのではないか.三角関数の知識があって何が嬉しいのか.微分が出来て助かる場面は,主に受験周りの世渡りだけのように思える.計算が得意な人,受験数学に強い人,各分野の専門家,そういった一つ一つの”我”が乱立しているのが見えるだけで,数学がなぜ重要かはあまり教えてくれないし分からないし,数学が社会の役に立っているとの鮮やかな目撃証言もそこまで聞かない.数学界隈に身を置く人も多くは甘い蜜を吸っているだけで,教育・受験構造に養ってもらっているだけの人も多い.数学は参入障壁が高いから,こういう生態系になるのも自然ではあろう.特に昔は「数学科に入ると教師になるしか途がないぞ」とよく言われたものらしい.門外漢からすれば数学に進学する人間は一体何がしたいのか分からないことだろう.僕もよく分からない.

数学と言えば「公式」だけがこの世でもてはやされる限り僕らの夢は終わらない.それを無意識的に当てはめるだけで済むところにまで簡約した「枠組み」の方にこそ大きな祈りが宿る.
そこまで来て初めて,「美しい」という形容詞が意味を持つ.— あのマス (@anomath_com) September 4, 2020

140文字以内で,学問としての/文化活動としての数学の(僕にとっての)魅力を伝えるなら,今のところこうなる.

正直に言おう.僕は数学という学問に辿り着いたけど,これは僕の大言壮語の癖の成れの果てである.換言すれば,数理的な科学の実力が全然信用出来ない.現代の科学技術文明を支えている実績があるだけで,それがなければほぼ詐欺で自己満足である.そして今の僕は自己満足の箱庭の中で必死に訓練を積んでいる.希望の手応えは日に日に確かなものとなっていくが,やはり将来は不安である.実際,大学の隠蔽する数学や科学の「悪行」は明るみに出つつあり,「監視の目」は厳しくなって居るのを感じる.

こんな言葉がある.

The most incomprehensible thing about the universe is that it is comprehensible.
– Albert Einstein, “Physics and Reality” (1936) Journal of the Franklin Institute.

We are in a position similar to that of a man who was provided with a bunch of keys and who, having to open several doors in succession, always hit on the right key on the first or second trial. He became skeptical concerning the uniqueness of the coordination between keys and doors.
– Eugene Wigner, “The Unreasonable Effectiveness of Mathematics in the Natural Sciences” (1936) Pure and Applied Mathematics.

ここからも分かる通り,実際数理科学が社会や文化に与える影響のその総体は,きっと第一線でご活躍されている研究者達もうまく説明出来なくて疑問に思って居ることであるようだ.これは当たり前で,あまりに大域的な事象だからである.だからそれを捉えるためには専用の言葉を探さなきゃいけなくて(つまり学問分野が違う),その営みは現在人類学などと呼ばれているものが有力だと私は観察している.

その中でも特に数学についての,大域的な影響を表現するための言葉と枠組みが欲しくて,非力ながらもやってみた試みがここに静かに置かれている.

「数学の人類学」の始まり | あのマス 以下の文章は,大学での講義「文化人類学Ⅱ」を履修し,期末レポートとして2020年2月4日に提出したレポートの抜粋である.私 anomath.com

先ほど引用したEugene Wignerは自身のエッセイ(講演録)の中で,”The unreasonable effectiveness of mathematics”の例として,「思わぬところ(Wignerの例では人口統計)から円周率πが出て来て,高校時代の友人に何かの冗談ではないかと疑われる」というエピソードが紹介されて居る.計算によって思わぬところから円周率πが出て来る不思議な現象を非常に巧妙に表現できている作品として次がある.次の動画は,理想的な設定下で,物体の衝突回数になぜか円周率が出てくる問題について説明している5分の動画で,解説は別動画だが,英語が所々分からなくても,洗練されたアニメーションだけでも肌感が伝わってくるし,僕はただ色と数式と音楽だけでも楽しめてしまう.

https://youtube.com/watch?v=HEfHFsfGXjs%3Frel%3D0

感性は人それぞれで,実は僕自身はこういうものにあまり感受性は強くない方だと思っていたけど,これを見たときはぶったまげた.プレゼンの仕方が推理小説みたいで発見的で,非常に体験として楽しい.そして綺麗,こんなものは観たことがなかった.

これは非常に鮮やかな例であるが,こうして人は形式的な計算でπが出てきた時に,全く関係ないと思っていた事柄が円と関係があるということに気付ける.それは,ひとえに数学の言葉が綺麗に整備されているからだ.僕はそっちの事実の方が気になった.授業で初めてπを習った時のことも,初めて物体の衝突の数学的な扱い方の例をNewton力学の授業で学んだ時も,僕と同じく皆さんももしかしたらいずれの印象も殆ど残っていないであろうが,この動画はどうであろうか.

こうして複数の事象を同じ俎上にあげて議論可能にする枠組みは綺麗だと思うし,事事無礙の大自然の様相を手元に写し取ろうとする人類の知的叛逆の試みには,未来があると思う.

俺はこれがたまらなく美しいと思った.

3.鈴木大拙は,詩人は,そして僕は,何者だろうか.

以上,第1節と第2節で,「(特に仏教的な)文章・漢文の使う,漢字を中心とした活字のメディア」と「数理科学の使う,数式を中心とした活字のメディア」をパラレルに比較しながら,僕が前者の力強さに感動してから,後者に明るい未来と可能性を見出した経緯を,あわよくば皆さんにもその片鱗を体験していただけるように説明したつもりである.
では,前者の仏教学や宗教の界隈における鈴木大拙の立ち位置はなんだったのか,何を目指して居るのか.ひいては,僕は数学で何がしたいのか,何を数学に持ち込みたいのかを考えたい.

次の鈴木大拙の文章をご覧になってほしい.僕の書く文章は,特に数学においても,しばしばこの文体を模倣していたのだなと,いまでははっきり自覚している.

個己の人格的・自主的価値性を認識して、これを尊重することは、力の世界では不可能なことである。力より以上のものに撞着しない限り、そのような余裕は力のみの中からは出てこない。自らの価値を尊重するが故に他のをもまた尊重するということは、自と他とがいずれもより大なるものの中に生きているとの自覚から出るのである。自と他とはそれより大いなるものの中に同等の地位を占めて対立しているのである。より大なるものに包まれているということは、自をそれで否定することである。換言すると、自の否定によりて自はそのより大なるものに生きる。そして兼ねてそこにおいて他と対して立つのである。自に他を見、他に自を見るとき、両者の間に起こる関係が個々の人格の尊重である。仏者はこれを平等即差別・差別即平等の理と言っている。
(「霊性的日本の建設」『鈴木大拙全集 第九巻』岩波書店)

全くオリジナルな語彙を用いて居るが,第1節で説明したような漢字の使い方や表現に工夫されて居るために,読めば読むほど,むしろ普段の口語よりも具体性を帯びて迫って来るような表現になって居る(勿論,そう感じない人も多いとは思うが,ここは僕の話に乗って欲しい).最初に読んだときは背筋に電撃が走った気がした.
そしてこの表現で各個人の中に掴まれた心的イメージを,仏教の中に用意されて居る概念体系の中に引き込んで提示する.元々仏教の用意して居る文化体系に興味関心があった場合は,そこから仏教の体系に誘われることになる.関心が無くても,「仏教は,僕の中に生じたこの感覚について,相手取って考えて居たのか」と,一気に身近に感じられるようになるのは興味深い.そして何より,具体的な語彙で断定して居ないので,各個人が各個人の精神性・個性を保ったまま,仏教という文化に向き合える.

僕は自身が数学者であると同時に(職業として数学者となるかは定かでないが),このような出会いを生むような人でもありたい.これは教育とも違う.

僕は鈴木大拙のような求道者・学問者も(本当に位置づけが分かって居ない),詩人も,数学者・科学者も,本質的なところでは見分けがつかないと思っている.勿論,社会の中での役割は似ても似付かないだろうが.

あるとき,ヒルベルトのセミナーで,以前に出席していた男のことが話題になった.「彼は詩人になりました」という報告を聞いて,ヒルベルトは,「あの男には数学者になるだけの創造力はないと思っていたよ」 と語った.— 数学の歩みbot (@Auf_Jugendtraum) November 18, 2019

このエピソードの受け取り方は様々で良いと思うが,一つ言えることとして,数学と詩が,表現形式が違うだけで,本質的に似た類の創造行為であることを前提として認めている例とも読めるであろう.少なくともこの詩人になったという方にとってそうだったのだろうし,僕もそう感じる.

詩人の方からも例を出そう.1960年のノーベル文学賞を受賞したフランスの詩人サン=ジョン・ペルスの言葉(の英訳)を借りると,”They (=scientist and poet) are exploring the same abyss and it is only in their modes of investigation that they differ.”である.すごく綺麗な表現だ.

But it is the disinterested thought of both scientist and poet that is honoured here. In this place at least let them no longer be considered hostile brothers. For they are exploring the same abyss and it is only in their modes of investigation that they differ.
– Saint-John Perse, speech at the Nobel Banquet at the City Hall in Stockholm, December 10, 1960

さらに興味深いのは,鈴木大拙は晩年,このサン=ジョン・ペルスを引いて,宗教の定義(の1つ)としているのである.次の動画は鈴木大拙の死の2年前である64年に収録されたインタビューで,2:00から,インタビュアー犬養道子の最初の質問「宗教とは一体なんでしょうか?」の返答として同じくサン=ジョン・ペルスから,「無限への憧憬である」と回答して居る.

https://youtube.com/watch?v=3AKxPpfQs54%3Frel%3D0

さてさて,ここまで来て,いよいよ,この節の表題である「鈴木大拙は,詩人は,そして僕は,何者だろうか.」が分からなくなって来て居る.数学者,詩人,科学者,仏教学者,宗教者・求道者に共通する何か普遍的なものがあるのだろうけど言葉が足りない.でも,実際要らないのだろうとも思う.

wikipediaのページでは鈴木大拙は仏教学者とされて居る.著書の1/4は英語で書かれており,広く禅文化を発信した為に,63年にはノーベル平和賞の候補にも上がって居る.僕はまだよく訳がわかって居ない.
鈴木大拙だけでなく,一般に研究者の,「一体どこからそんな発想・言葉使い・佇まいが出て来たのか」と思わせるような「どの教義にも所属して居ない感」が好きで,僕は学問全般が好きだ.知的にこの上なく自由だ.知的に何にも隷属しない,しかしその上で保たれる品性に,不思議な魅惑を感じてしまう.

こうして話がepigraphのBertrand Russellの言葉”the sense of being more than Man”に戻ったところで,僕は数学に戻ります.

あの

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数学科出身の統計家志望.

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りん

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